大阪天王寺七坂ー3 太平寺・天鷺寺・梅旧禅院・清地蔵・家隆塚
9月1日の誕生花 アスター
花言葉: 思い出、追憶、変化
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「青蓮寺」の右横から「大阪夕陽ケ丘学園」の前を通り谷町筋に出た。学園坂(学園坂は七坂に含まれない)を挟み「太平寺」の十三参りの案内が見える。
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四天王寺夕陽丘の一角にあり、もとは四天王寺の境内にあったひとつの堂宇だったが、戦国時代の弘治元年(1555)ごろ、四天王寺の境内が縮小されたため、同寺は外に取り残され、真言宗の龍翔寺となった。その後、寛文3(1663)、僧の誾越(ぎんえつ)によって、曹洞宗禅寺・太平寺として開山され、現在に至っている。安置されている虚空蔵菩薩は、知恵と福徳を持った菩薩とされ「知恵まいり」ともいう。江戸で盛んだった「七五三まいり」に対して、大阪や京都では「十三まいり」が一般的だったそうだ。
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境内に入ると直ぐにマニ車(経車)が有る。中にはお経が納められており、これを手で回すとお経を一巻お唱えするのと同じ功徳があるといわれています
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縁日の3月13日と4月13日に、十三歳になった子どもが参拝する 本堂
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釈迦三尊 元来、明治時代に四天王寺との交諠により贈られた三尊像でしたが、大阪大空襲で焼失した。現在は昭和57年に仏像と建物共に復興され、清凉寺様式の釈迦如来しゃかにょらい立像、獅子に乗った文殊菩薩もんじゅぼさつ、象に乗った普賢菩薩ふげんぼさつが祀られいる
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観音像
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虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は大空のような広大無辺の知恵と慈悲を持ち、衆生の願いを叶えるとされ、十三仏信仰の十三番目、満願成就の仏さまです十三丑年寅年の守り本尊さまとして信仰を集めています
針塚
裁縫に携わっている人々が、針仕事を休めて一年間使った古い針を供養すると共に裁縫の上達を願うという古くからの行事です。
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筆塚
使い古された筆やペンなどを供養します。書芸、文芸の奉納行事として、道具への感謝と共に諸芸上達の願いを込めて行われます。
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境内には他に北山不動明王が有る
元禄のころ、当時海内随一の名医北山壽安(号は友松子、または仁壽庵、逃禅堂とも称した)は、大名や富裕な商人達の治療と共に貧者の治療や救済にも力を尽くしました。昭和の初期にかけて講談や浪曲などで医聖として全国津々浦々にまでその名をはせた藪井玄意は北山壽安をモデルにしたものです
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お寺の境内に有る鳥居の向うに朱色の塔??が見える
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出典 三善貞司「大阪史蹟辞典」
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太平寺を出ると谷町筋の向かいに奇妙な建物が見える
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天鷺寺 天台宗店宗祖傳教大師最澄によって開創されたこのお寺は、傳教大師入唐求法帰朝記念のお寺としてその由緒と格式を現在に伝えている。創建以来、非常に栄えたが、平安末期源平合戦の動乱に始まる長い戦国乱世の蹂躙を受け寺勢が一時衰退し、天正年間(1573-1592)に後陽成天皇の勅諚により現在地にて復興された。 しかし再び大阪夏の陣で焼失、天下を獲った徳川家康公が再興し天海大僧正が住職となるや江戸は上野寛永寺との法縁深く紀州徳川家とも繋がり大阪を代表する天台宗の一大寺として栄華を誇った。 非公開で他に写真は有りません
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谷町筋を南下して口縄坂(くちなわざか)を下った。
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口縄坂(くちなわざか)
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松屋町筋に続く縁濃く静かな石畳の坂です。
源聖寺坂とならび、上町台地の坂を代表しています。口縄とは蛇のことであり、坂の下から眺めると、道の起伏が「蛇(くちなわ)」に似ているところから、この名が付けられたといいます。また、大阪城築城のとき、縄打ちを始めた地であるためという説もあります。
途中に織田作之助の文学碑が右手にあり、「口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた…」『木の都』の一節が刻まれています
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口縄坂の中間に「梅旧禅院」が有る 宝光山 梅旧禅院は梅旧院光明殿の本院であり、曹洞宗の流れを汲む由緒ある寺院です。1100年前、菅原道真公が九州太宰府に流される際、母と最後の別れを惜しんだ場所と伝えられています。
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元禄7年(1694)に芭蕉が亡くなった時、当時の梅旧院の住職がお経を読ん
だ関わりで、加賀の俳人不二庵二柳(1723^1803)が芭蕉の墓をこの地に建立
したと云われます。
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梅旧院から「浄春寺」の山門前を通り「清地蔵」に着いた。
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伊達家・陸奥家 墓所跡
向かって右側の石碑を「夕日岡阡表」といい、陸奥宗光が先考(実父)伊達宗広の行実を漢文で述べたものである。伊達宗広は紀州藩の重臣で、政敵によって蟄居させられたが、赦免後脱藩して、主に京都で勤王活動を行った鎌倉初期の歌人、藤原家隆を敬愛していた宗広は、明治初期、この地に来て、この地の風趣を愛し、自分も家隆卿の傍に眠らんと、自在庵を建てた。.また家隆卿の和歌にちなんで、当地を「夕日岡」と名づけ、伊達・陸奥一族の墓地と定めた。宗広は明治十年、東京で亡くなったが、遺言により夕日岡に葬られた。
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解説版の前に石碑が建っていますが、正面が 夕日岡(夕陽丘)命名の地
右側が 伊達宗広 陸奥宗光墓所跡 左側が 小松帯刀墓所跡
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「清地蔵」から少し奥に入ると家隆塚が有る
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家隆塚は、鎌倉時代の歌人、藤原家隆がこの地に「夕陽庵(せきようあん)」という庵を建てて、隠棲したことに由来している。夕陽丘の地名もこのことに由来している。この地で、「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも」という歌を残している
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この歌碑が家隆塚に建てられている。この家隆塚、藤原家隆の墓所と伝えられ、いつの頃からか五輪塔が建てられている。また、五輪塔の横には、家隆塚の由来を綴った石碑がある。(江戸時代、享保年間に建てられたようだ。)
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塚からは、愛染堂の多宝塔の裏側を見える
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もう一度谷町筋に出て「真光院」を尋ねた
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丁度「愛染まつり」の日で寺の前にも「露店」が所狭しと並んでいた」
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「真光院」は別名「六万体地蔵尊」とも云われ、当院に聖徳太子が六万体の石地蔵尊を刻んで納めたとあり、今でも この辺り一帯の地中を掘るとお地蔵さんが出てくるらしい。界隈の地名は「六万体町」と呼ばれている
境内にある六地蔵尊。山門を入った正面の地蔵尊
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【六地蔵】
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594年、聖徳太子の草創で、用明天皇追孝の念仏法会を修した折に、天竺祇園精舎の西北角に当たる無常院に模して四天王寺の無常院菩提所と定めた
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参考資料] 『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会
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真光院から谷町筋を挟んで吉祥寺が有る。吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院である。創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ、1739年(元文4年)建立されたという。
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討入りのあった12月14日にちなみ毎年「大阪義士祭」が行われ、義士の寺として親しまれている
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境内右手に赤穂浪士が討入後、切腹御免となった寺坂吉右衛門が四十六義士の冥福を祈る碑の建立を吉祥寺に依頼したといういわれのある四十七義士の墓がひっそりと佇む。
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山門をくぐると大石内蔵助の石像が鎮座している
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少し奥に入ると躍動感あふれる四十七義士の姿が見られる。
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