京都 高雄 神護寺ー1
11月14日の誕生花 アルストロメリア
花言葉: 持続、エキゾチック、援助
洛西 栂尾(高山寺)・槙尾(西明寺)・高雄(神護寺)
高山寺・西明寺の拝観を終えて最後の「神護寺」にやってきた
高雄山「神護国祚真言寺」 略して神護寺と呼ばれている。
神護寺は、三尾のうち高雄(たかお=高尾)にあたる真言宗の
別格本山。いずれも和気氏の私寺であったと思われる「神願寺」
と「高雄山寺」という2つの寺院が天長元年(824年)に事実上
合併して出来た寺である。2つの前身寺院のうち、神願寺は、
和気清麻呂(733 ~799)により8世紀の末頃に建てられた。
木々に囲まれた山中に、金堂、多宝塔、大師堂などが建つ神護寺
は「空海」が、東寺や高野山の経営に当たる以前に住した寺で
あるとともに「最澄」も法華経の講義をした事があると言われて
いる為、日本仏教史上では大変重要な寺院だとされています。
(空海、最澄}は、ともに平安時代の僧侶です
西明寺から清滝川の左岸を行くと高雄橋に出ます。
橋から見る渓谷は「錦雲峡(きんうんきょう)」と呼ばれる
高雄橋を渡ると神護寺参道の案内板があります。高山寺・西明寺参拝でかなり疲れた足の為「ツムラの漢方薬68」を服用して身心の事前準備ができた・・・・・。 はず
参道の入口付近は緩やかな石段で安心しましたが ・・・・・
3分も歩くと どんどん傾斜がきつくなってきました。
約10分も登ると 事前準備の甲斐もなく筋肉が硬直してきて
激痛が走り出した。それでも重い足を引きずるように登って
行くと 参道は「ハシゴ」状態 (´;ω;`)ウゥゥ その上平成30
年秋の台風21号で倒れた木々が参道をまたいでいた。
倒木の下を潜り抜け息を切らせて登るが遂に限界が来た
意識モウロウ 石段に座り込み「エアーサロンパス」をズボン の裾をまくり上げ また 付近に参拝者が居ないことを確認してズボンを下ろし太ももにも大量に吹きかけた。下を見ると・・長年見たことの無かった「カタツムリ」が小生を見上げていた
「エアーサロンパス」が効いてきて重い腰を上げて参道を
歩き出すと又倒木が有った。
途中に何か所も茶店は有るが、どこも営業していなかった。
参道途中に空海が神護寺で修行をしていたとき、嵯峨天皇が
空海に「金剛定寺」の門額を書くよう勅使を送った。その時
清滝川が増水していて勅使が渡ることができなかった。空海
は、この石を硯石として,筆に墨を含ませ空に向かって字を
書いた。墨は飛び散って,はるか向こうの金剛定寺の門額の
文字として表れたという。硯石(すずりいし)と呼ばれています。
肥満体の小生は参道入口から 約40分(普通の人は約20分らしい)
「はしご」のような石段を這うように上り詰めた先に元和9年
(1623年)建立の楼門が西を向いて建っていました。
立っているのが精いっぱい 放心状態の小生
この時考えていたのは どうして下山しようか・・・タクシー
を呼べないか・ヘリコプターは・金毘羅さんのように「かご」は
今から「ロープウエーイ」の工事は・・・・(´;ω;`)ウゥゥ
両脇を見ると二天像が笑っているように見えた ・(*ノωノ)
山門横に「灌頂」の案内版がかけられている
灌頂とは師匠から弟子に直接伝えられる密教の特別な儀式。
唐から帰られた弘法大師が高雄山寺(現在の神護寺で弘仁3年
812)に伝教大師最澄らに授けられた記録が残されている。
広い境内の お堂は全部段々畑のように
山の斜面に立っているように描かれています。
だが楼門をくぐると、広い平らな境内が広がります
ここに来るまでのハシゴのような参道は・・・(´;ω;`)ウゥゥ
これで絶壁のような石段を卒業出来たと安心した。
まず右手に書院、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち並びます。
書院は唐門のような感じです
書院では毎年5月1日~5月5日まで宝物虫払い行事が行われます
国宝重要文化財など「神護寺 寺宝展」が公開されます。
神護寺寺宝の源頼朝像は国宝シリーズの切手になっている。
紺紙金字一切経 紺紙に銀罫を施し金泥で書写した一切経で、
表紙は宝相華唐草文様、見返しは釈迦説法の図を金銀泥で
描いている。 寺伝によれば、この一切経は鳥羽法皇の発願に
より、御子後白河法皇がその遺志をついで完成されたという。
絹本著色釈迦如来像 - 平安時代末期の仏画。通称は「赤釈迦」
画面寸法は縦159.4cm、横85.5cm。平安時代には密教や
阿弥陀信仰の興隆により釈迦信仰は低迷していたが、一方で
天台宗を中心とした法華経においては釈迦如来が重要視され、
本象は法華経仏事において用いられた独尊像と考えられている。
赤の衣を着た釈迦像を大きく表し、着衣、光背、台座などは
繊細な切金文様と彩色で飾られた12世紀特有の装飾性豊かな
表現が特徴とされる。「赤釈迦」の通称がある
平重盛像・源頼朝像・藤原光能像
『神護寺略記』によれば、中央に後白河法皇像、これに対して
左右に源頼朝像、平重盛像、下座に平業房像、藤原光能像が、
いずれも視線を法皇に向き、お仕えする形に配されていた。
山水屏風 真言密教の寺院において灌頂の儀式のときに用いら
れる屏風で、風景も建物も人物も大和絵になりきっている。
紫綾金銀泥両界曼荼羅図(高雄曼荼羅)
9世紀の両界曼荼羅図で、通称は高雄曼荼羅。彩色本ではなく、
紫色に染めた綾地に金銀泥で描いたものである。
損傷甚大ながら、空海在世時の作で、空海が唐から請来した曼荼
羅原本の唐様式を最もよく示すものとされ、美術史上、仏教史上
に貴重な作品である。画面寸法は胎蔵曼荼羅が縦448.0cm、
横408.0cm、金剛界曼荼羅が縦409.0cm、横368.0cm。入唐僧
の空海は長安で師の恵果から宮廷画家李真らの製作した曼荼羅
数点(根本曼荼羅と呼ばれる彩色両界曼荼羅)を送られ日本へ
持ち帰り、密教儀礼に用いられていたという。
書院の隣に倉庫のような「宝蔵」が立っています。普段寺宝は
ここに保管されているのだろうか
その左隣に朱に塗られた「和気清麻呂廟」がありました。
清麻呂天平5年(733)備前国藤野郡に生まれました。
藤野郡は現在「和気郡」と改称されています。
歴史上には数多くの英雄偉人がいるが、皇居に銅像が建って
いるのは二人だけである。それは和気清麻呂と楠木正成で
ある。和気清麻呂は楠木正成とならぶ勤皇の忠臣とされる。
岡山県和気町の「和気神社」の銅像
京都「護王神社」の銅像
神護景雲三年(769年)の9月25日和気清麻呂という貴族が
宇佐八幡宮の神託を確かめ、道鏡の皇位につく野心を退けた。
桓武天皇(女性)に平安遷都を建言し、造宮大夫として平安京
つくりを推進した忠臣です。
「イノシシ」で有名な 京都護王神社の祭神でもあります。
昭和5年(1930)発行の「日本銀行券 拾圓札」
清麻呂の肖像画を使用していました。
墓所は神護寺境内に廟があります。
鐘楼 毘沙門堂などと同様元和9年(1623年)の再建とされる。
楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘がある。貞観17年(875年)
の作。鐘の表面に鋳出された長文の銘文は、文人の橘広相が詞
を、菅原是善(道真の父)が銘を作り、歌人で能書家でもあった
藤原敏行が字を書いたもので、当代一流の文化人3人が関わって
いることから、古来「三絶の鐘」と称されている。2階建ての
鐘楼の楼上に架かっており、一般には公開されていない。
神護寺 金堂・多宝塔・五大堂・金毘羅堂・は次週に
出典
『古寺巡礼神護寺』井上靖、塚本善隆、林屋辰三郎、谷内乾岳著
竹村俊則『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、
『週刊朝日百科 日本の国宝』11号(神護寺)
『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
『国史大辞典』、吉川弘文館
日本の寺院一覧
神護寺三像
外部リンク
ウィキペディア
神護寺公式ホームページ
ウィキメディア・コモンズ
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