京都 長岡京-1 勝龍寺公園
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JR長岡京駅 の東口を出ると、村田製作所本社ビルの前の広場に「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」石碑が立つ。石碑には「この付近は、江戸時代初めに 永井直清 が16年間営んだ城の本丸があったところで神足館とも呼ばれる」と書いてあった。
山崎の戦いで落城した勝龍寺城は、江戸時代になった後の1633年に永井直清が入城し幕府の命で城の北に屋敷を建てたと言われている。
JR長岡京駅は かつて「神足駅」と呼ばれていた。東口駅前で昔使われてた鉄道車輪が展示されています。新幹線0系とD51形蒸気機関車の車輪で新幹線0系電車は1964年の東海道新幹線開業時に開発された初代の新幹線車両で「D51形蒸気機関車」は日本国有鉄道(国鉄)の前身である 鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車の車輪が展示してある
また広場右側には貨物列車の最後部に連結されていた昭和52年製造の車掌車両「ヨ8000形」が展示されています。この場所に保存されたのは1988(昭和63)年だと説明板には記載されています。
東口駅前広場を出て約13分歩けば「勝竜寺城公園」に到着した。暦応2年(1339年)に細川頼春が築城したといわれる。織田信長の時代に細川藤孝によって城の大改修が行われ、その面影を今に伝える。天正6年(1578年)に明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)が、藤孝の長男忠興のもとに輿入れした城として有名です。
東北角から堀を西に行けば北門跡に出る。石垣で囲まれた勝龍寺城の北門は「山崎の戦い」で敗れた明智光秀が夜陰に紛れて落ち延びた門といわれています。いわゆる枡形虎口の構造になっていますが、これは細川藤孝が改修した際に築かれたそうです。
発掘調査により堀を囲む石垣跡から石仏や五輪塔などが多数出土したため、北門跡前に奉納されている。
ここから一度直進して南門を出て正面に回った。模擬櫓(勝竜寺城公園管理棟) 勝竜寺城公園は1992年(平成4年)に整備された公園で、管理棟は模擬櫓として建てられました。2007年(平成19年)2月には「日本の歴史公園100選」に選ばれています。
入口の前には「明智光秀公 三女 玉 お輿入れの城」の石碑が立つ。玉とは「細川ガラシャ」の事です。
正面入り口
正面入り口にはここが勝龍寺城の本丸跡だったことを示す案内板があります
本丸跡の案内板には城の心臓部にあたる本丸は、東西約105m、南北約70mで、その周囲には水を湛(たた)えた幅広い堀が造られ、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。と案内されていた。
正面には公園名の大きな石柱が立っていました。
中国文様の巨大な石柱
山門は東向きに有ります
公園の庭園側から見た管理棟です。現在耐震工事で休館中でした
勝龍寺城は細川忠興とガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られています。1578年(天正6年)8月、織田信長の仲介を受けて、細川藤孝の嫡男・忠興と明智光秀の三女・玉子(お玉)がこの城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされています。勝龍寺城での生活はわずか2,3年だった。公園内には細川忠興・玉(ガラシャ)の銅像が建てられています。
そばには「ガラシャおもかげの水」と名づけられた水飲み場があります。
出典
日本の城一覧・日本の合戦一覧・三好政権・織田政権
久米田の戦い・美しい日本の歩きたくなるみち500選
畿内・近国の戦国時代
外部リンク
ウィキメディア・コモンズ
勝竜寺城公園の紹介/長岡京市役所公式ホームページ
勝竜寺城公園/長岡京市観光協会公式ホームページ
勝龍寺城の観光ガイド
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