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2021年1月 3日 (日)

高天原・天孫降臨ー3 高千穂説

1月3日の誕生花               クロッカス

花言葉:                切望、歓喜、信頼

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天孫降臨(てんそんこうりん)とは、照大神の  邇邇藝命(ににぎのみこと)を地上(葦原の中つ国)に降臨させた物語です。

天照大神(あまてらすおおかみ)は、日本神話に主神として登場する神。

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小生が学童のころ習った教科書では、高天原・天孫降臨は「宮崎県高千穂」と習った。
中学校では 奈良県御所市葛城 だ とも習った記憶がある。余り興味がなかったのだろう よく覚えていない。


近年 古事記・日本書紀に書かれている 高千穂説は 編纂者「藤原 不比等ふじわら の ふひと」により歴史が、大きく改ざんされたものだと言われるようになった。



ここで高千穂説を検証してみよう。

天孫降臨の地・高千穂

天孫降臨とは何なのか?これは言葉の通り、天の神々が地上に降り立った事である。
父方の祖母がアマテラス、母方の祖父がタカミムスビという天界の貴士ニニギが葦原中国の統治を任された。ニニギは三種の神器と、多くの神々を従え、国津神のサルタヒコを道案内として筑紫の東方の高千穂の峰に降下したという。これが高千穂への天孫降臨である。

では、その高千穂の峰とは何処に在ったのか?これについては諸説あり、今もって特定されていない。

オオクニヌシの国譲り

神話の時代、アマテラスは葦原中国(日本列島)の統治を決意し、国王のオオクニヌシに対して国譲りを迫る。その三度目の使者である剣と雷の神タケミカヅチが出雲に降りると、オオクニヌシは国譲りの判断を二柱の子神にゆだねた。


先ずコトシロヌシが恭順して譲渡を承諾、次のタケミナカタタケミカヅチとの力比べに挑むも圧倒され、、科野国の海(諏訪湖)に逃げて降参した。こうして出雲の国津神との交渉は妥結した。



小生は高千穂説を検証するため大手旅行社を訪ねた。担当者は下記のコースを進めてくれた。



高千穂のパワースポット巡りのモデルコースプラン 完全にテーマパーク扱いである


スタート(高千穂バスセンター)⇒ 車5分 高千穂峡 ⇒ 車3分 高千穂神社 ⇒車5分 天真名井⇒車すぐ 荒立神社 ⇒車15分 天岩戸神社 ⇒徒歩10分 天安河原 ⇒車15分ゴール(高千穂バスセンター)

旅行社で頂いたパンフ通りに、ゆっくり時間をかけて回ったが約3時間のコースだった。


二カ所の高千穂

      霧島神宮と高千穂神社


高千穂は何処に在ったのか、それは今現在分かっていないが、多くの候補地が名を連ねる。 そのなかでも特に、鹿児島県霧島市の霧島神宮  「 ニニギ」を主祭神とするが、古代から何度も噴火を受けて炎上している。 「天照」の孫「ニニギ」を先頭に降臨する神々

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現在の社殿は、正徳5年(1715)に鹿児島藩(薩摩藩)の島津吉貴が造営したもので、極彩色の装飾が鮮やかなに映えて荘厳である。また、社格も高く、天安2年(858)に朝廷から従四位下の神位が贈られ、明7(1874)には官幣大社に列している。更に、この神社に関連したニニギの陵墓が鹿児島県川内市の新田神社にあり、昭和天皇などがご参拝されている。

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また 宮崎県高千穂町の
高千穂神社などが有名だ。

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    ニニギが突き立てた天逆鉾

宮崎県と鹿児島県の県境にそびえ立つ霧島連山の高千穂峰の頂には、国家の安定を願ってニニギが突き立てたという天の逆鉾が残されている。だが、もとの逆鉾は火山の噴火で焼けてしまい、現在のモノはレプリカであるという。

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         天岩戸神社

町内には、ニニギが降りたという二神山や、高天原の神話を伝承した天岩戸神社もある。
この神社の御神体は天の石屋戸で、高天原の神々が相談をした天の安河原や、ウズメが舞った場所まであるとされる。

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       槵觸(くしふる)神社

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このように「テーマパーク」化した高千穂説には多くの疑問点があります。


先ず古事記・日本書紀の編纂者「藤原不比等」は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。

 

(ここからの記述は下記から引用しています)

https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201601050000/
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201507060001/
佐竹淳如氏、田村誠一氏、vetty 氏の高天原=蒜山説
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201601110000/

地球なんでも鑑定団
http://check.weblog.to/archives/8532973.html


 

『尊卑分脈』に引く藤氏大祖伝に、藤原不比等は山科の田辺史大隈の家で養育され、史(ふひと)と名づけられたと記されている。百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうが、当時の最大権力者藤原不比等(史を不比等に改めた)が、百済系史官のバックにいたことは当然考えられる。不比等は大宝律令の撰定者でもあったが、『続日本紀』に、藤原不比等ら撰定者に録を賜うとあり、その中に田辺史百枝・田辺史首名の名がみえる。田辺史から選ばれているのは、田辺史に養育された不比等のバックアップによるものであろう。大宝律令の撰定に百済系史官を使っているのだから、『日本書紀』の編纂にも藤原不比等の息のかかった百済系史官を使ったものと思われる。百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。山上憶良は百済人であり百済系史官であった。

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  白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。当時の最大権力者である藤原不比等も百済系である。藤原不比等の息のかかった百済系史官が『日本書紀』の編さんにおける中心的役割を果たしていた。藤原不比等は自分たちに関係する百済の王族のいたところを天孫降臨の地にしたかったのである。それが天武天皇の命で編さんされた古事記を改ざんし、長い間消し去っていた動機である。古事記は712年に発表されたが長い間消し去られていた。 古事記を見て天孫降臨の地が伯耆国であると知った藤原不比等は716年に史誌編さんに携わっていた山上憶良を(天孫降臨の地の移転目的で)古事記の内容の確認と調査のため伯耆国の国司(国庁は倉吉市国府)に派遣する。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくることもせず、調査に専念している。伯耆国の調査報告を受けた藤原不比等は古事記の記述をもとに百済色に改ざんして日本書紀などの史誌を編さんした。その後日本書紀は720年に発表されその年に藤原不比等も亡くなった。翌721年に山上憶良は朝廷へ帰った。5年後の726年再び筑前の国司として九州に行く。 大伴旅人(九州全体の長官)と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように 九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。



 九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。厳密にいえば現在までコピー元を消してきたのでコピーではない。八幡神社を各地に作って既存の神社の存在感を希薄にしたのもこの頃である。伯耆国にあった神社を目立たないようにしてきた。延喜式神名帳(927年)に記載されている神社で鳥取県は僅かに48社であるが因幡国42社で特に伯耆国は6社にしか過ぎない。この頃因幡には250社、伯耆は240社位あったそうである。因幡と伯耆の祭神を見ると、因幡は古事記による神名が多いのに反し、伯耆は日本書紀による神名が多い(鳥取県神社誌昭和9年刊)。日本書紀編さんに携わっていた者の影響が残っている。北栄町上種・茶屋条の西の丘の上にある大宮神社は鳥取県神社誌には載っていない。造りは新しいが上種・茶屋条の住民はずっと昔からこの場所にあって管理してきたそうである。住民の記憶までは消すことが出来ない。



 ニニギの尊は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で論争になったが、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよと、とらえればよい。古くから朝鮮半島からの渡来人が多く漂着したところです。当時は海岸線が4m高く、リアス式海岸であり笠形の砂地を先頭にして、北栄町の瀬戸から亀谷・津原・穂波・原まで巻くような大島を中心とする大きな天然の良港があった。今でも葦が茂っており葦原中津国である。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。北栄町の松神と下神の北側にはニニギの命とコノハナサクヤヒメが出会った三輪山があった。今は崩されて丘だけとなり三輪神社跡の石碑が残るのみであるが、三輪神社にはニニギの命(日向御子)が祭られていたのではないか。松神神社には神阿多都比売(コノハナサクヤヒメ)がまつられている。


  縄文海進で海面が百数十メートル上昇すれば蒜山のような高いところに逃げるのは本能である。その後国譲りで蒜山から
鏡ヶ成(猿田彦が鏡を使って連絡をした場所)を通ってすぐ下の関金に降りてきた。幼少期のニニギの命は関金(三ヶ所の神社に祭られている)神田神社 関金町泰久寺632番 日子番能瓊々杵命、 矢送神社 旧矢送村 関金町山口447番、日吉神社 関金町関金宿325番)で成長し上福田楯縫神社)に移り、その後上種(大宮神社)に御所を築いた。関金からほぼ真北に移動している。大宮(上種)以前(関金、上福田)はやまかげの場所ばかりで大宮(上種)を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。 


もと出雲国であり天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国である。ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。
天太玉命は方見神社(琴浦町上伊勢100番地)に 石凝姥命は倉坂神社(琴浦町倉坂1229番)に、天手力雄命は神郷神社(琴浦町大杉887番)に、天鈿女命は上里神社にまつられている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵の少し下ったところにある亀谷神社祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる高江神社が隣の丘にあります(コノハナサクヤヒメを祭る子安神社)。


大宮神社(ニニギ命の御所があっめた所)に直に射す朝日。

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藤原氏が支配する神社庁に抹殺された大宮神社。祭神 大国主 別雷命(阿遅鋤高日子根神)天孫瓊々杵命 素戔嗚命 猿田彦命 菅原道真

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木花之佐久夜比売命を祀る亀谷神社 祭神 木花之佐久夜比売命 品陀和気命 大国主命 事代主命 
が住み、同じ丘陵のもう少し山側(下種の大宮神社)には天孫瓊々杵命が御所を建てた。天孫はこの地域(葦原中津国)を目標に降りてきて、この地域(葦原中津国)を平定した。穂波には一番の家来の天児屋根命がいた。由緒 当社は往古より四所に鎮まり、各社とも創立年代詳ならざれども木花之佐久夜比売命は氏宮大明神と崇敬し現今の社地に鎮座す(鳥取県神社誌より)。

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天児屋根命を祀る合併前の穂波神社と合併後の宮崎神社

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大正5年5月14日大誠村大字穂波字塚林西鎮座村社、穂波神社、祭神天児屋根命を合併す(鳥取県神社誌より)。穂波神社を合併した宮崎神社

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 他にも天孫降臨が高千穂でない決定的な理由があります。



 天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、玉依姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。



  やすみししわご大君の食国(おすくに)は倭(伯耆国を含む出雲)も此処(九州)も同じとぞ思ふ -大伴 旅人父母を 見れば貴し 
妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)を 脱き棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)きて 行(ゆ)くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝(な)がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲(あまくも)の 向伏(むかぶ)す極(きは)み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極(きは)み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに しかにはあらじか 山上 憶良父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、黐(モチ)にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。

行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前(大伴旅人)をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。



 天照大御神を祀る神社は鳥取県に110社あるが、その中で伯耆国は87社(79%)、因幡国は23社(21%)である。総神社数は因幡国の
ほうが多いが天照大御神を祀る神社は鳥取県中西部が圧倒的に多い。



高天原・天孫降臨  因幡・伯耆・蒜山・出雲説は 後日実地検証しましたのでご案内いたします

出典 

https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201601050000/
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201507060001/
佐竹淳如氏、田村誠一氏、vetty氏の高天原=蒜山説
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201601110000/

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http://check.weblog.to/archives/8532973.html

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