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2021年2月25日 (木)

高天原・天孫降臨ー6 伯耆国 蒜山説-2

2月25日の誕生花    ハナカイドウ (花海棠)

花言葉:            温和、美人の眠り
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因幡・伯耆国は今日で言う出雲国の隣です。伯耆国はもとは出雲国と同じスサノオ大国主の命が支配していました。もと出雲の国ならばスサノオや大国主がいた痕跡(祭られている神社)が残っているはずです。宮崎県には少ないが伯耆国は多い(387社中 素戔嗚 199社・大国主 89社)です。もと出雲国の伯耆国を天孫族に国譲りしました。国譲りの交渉に2番目に派遣された天稚彦命は大国主の命の娘の下照姫命と結婚して8年間帰って来ませんでした。結婚して伯耆国の倉吉駅の近くの大平山近辺に住んでいました。天稚彦命と下照姫命の祭られている神社は希少ですが倭文神社(しとりじんじゃ)(旧舎人村 湯梨浜町宮内754) 
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と 波波伎神社(倉吉市福庭)に祭られています。
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 波波伎(ハハキ)とは櫛稲田姫命が「母来ませ」と助けを求めたところからきています。波波伎神社の横を流れる天神川の上流の坂本の神社には櫛稲田姫命の両親が祭られています。箸の流れるのが分かるほどの支流です。途中、大瀬ほうき(ハハキが訛ってほうき=伯耆になった)という地名も残っています。大平山の麓には後に 天孫降臨の{ニニギの命」が東倭を征伐し浦が安くなるように建立したと伝のある上里神社があります。
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 『尊卑分脈』に引く藤氏大祖伝に、藤原不比等は山科の田辺史大隈の家で養育され、史(ふひと)と名づけられたと記されている。百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうが、当時の最大権力者藤原不比等(史を不比等に改めた)が、百済系史官のバックにいたことは当然考えられる。不比等は大宝律令の撰定者でもあったが、『続日本紀』に、藤原不比等ら撰定者に録を賜うとあり、その中に田辺史百枝・田辺史首名の名がみえる。田辺史から選ばれているのは、田辺史に養育された不比等の援助によるものであろう。大宝律令の撰定に百済系史官を使っているのだから、『日本書紀』の編纂にも藤原不比等の息のかかった百済系史官を使ったものと思われる。百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。山上憶良は百済人であり百済系史官であった。

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  白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。当時の最大権力者である藤原不比等も百済系である。藤原不比等の息のかかった百済系史官が『日本書紀』の編さんにおける中心的役割を果たしていた。藤原不比等は自分たちに関係する百済の王族のいたところを天孫降臨の地にしたかったのである。それが天武天皇の命で編さんされた古事記を改ざんし、長い間消し去っていた動機である。古事記は 712年に発表されたが長い間消し去られていた。 古事記を見て天孫降臨の地が伯耆国であると知った藤原不比等は 716年に史誌編さんに携わっていた「山上憶良(やまのうえのおくら
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奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く、万葉集に80首の歌が収められている。660年頃の生まれと推定され、粟田朝臣の同族で、天足彦国忍人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫とされる説と朝鮮半島からの渡来人である。憶良は、42歳で遣唐使書記に抜擢され、貴族になったが、出世に恵まれず、54歳の時に上級官人になり、716年(霊亀2年)に57歳で初めての国司として、伯耆守に任命された。その後、726年(神亀3年)ごろに67歳で筑前守として赴任。その地で大宰府の長官に着任した大伴旅人(大伴家持の父)と交流があった】【大伴旅人(おおとも の たびと)は飛鳥〜奈良時代にかけての人物です。665年に生まれ731年に67歳でなくなりました。新元号「令和」の発表では、大伴旅人の名前の他に、「太宰府(だざいふ)」という名称も話題になりました。Photo_20201021073001

これは旅人が728年、九州地方の政治の統括や、大陸からの防衛などの任務を担っている太宰府の長官(大宰帥=だざいのそち、と言います)に任命され、今の福岡県太宰府市に赴任した事がきっかけとなっています。

山上憶良は(天孫降臨の地の移転目的で)古事記の内容の確認と調査のため伯耆国の国司(国庁は倉吉市国府)に派遣する。好きな万葉の歌一首をつくることもせず、調査に専念している。伯耆国の調査報告を受けた藤原不比等は古事記の記述をもとに百済色に改ざんして日本書紀などの史誌を編さんした。その後日本書紀は 720年に発表されその年に藤原不比等も亡くなった。翌721年に山上憶良は朝廷へ帰った。5年後の 726年再び筑前の国司として九州に行く。 大伴旅人(九州全体の長官)と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように 九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。

 

 九州の記紀伝説は伯耆国の地名を変えただけのものです。八幡神社を各地に作って既存の神社の存在感を希薄にしたのもこの頃である。伯耆国にあった神社を目立たないようにしてきた。延喜式神名帳(927年)に記載されている神社で鳥取県は僅かに48社であるが 因幡国42社で特に伯耆国は6社にしか過ぎない。この頃因幡には 250社、伯耆は 240社位あったそうである。因幡と伯耆の祭神を見ると、因幡は古事記による神名が多いのに反し、伯耆は日本書紀による神名が多い(鳥取県神社誌昭和9年刊)。日本書紀編さんに携わっていた者の影響が残っている。北栄町上種・茶屋条の西の丘の上にある大宮神社は鳥取県神社誌には載っていない。造りは新しいが上種・茶屋条の住民はずっと昔からこの場所にあって管理してきたそうである。住民の記憶までは消すことが出来ない。

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 ニニギの尊は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で論争になったが、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよと、とらえればよい。古くから朝鮮半島からの渡来人が多く漂着したところです。当時は海岸線が4m高く、リアス式海岸であり笠形の砂地を先頭にして、北栄町の瀬戸から亀谷・津原・穂波・原まで巻くような大島を中心とする大きな天然の良港があった。今でも葦が茂っており葦原中津国である。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。そして現在の地方名も「中国地方」の呼び名が残っています。

北栄町の松神と下神の北側にはニニギの命とコノハナサクヤヒメが出会った三輪山があった。今は崩されて丘だけとなり三輪神社跡の石碑が残るのみであるが、三輪神社にはニニギの命(日向御子)が祭られていたのではないか。松神神社には神阿多都比売(コノハナサクヤヒメ)がまつられている。

 縄文海進で海面が百数十メートル上昇すれば蒜山のような高いところに逃げるのは本能である。その後国譲りで蒜山から鏡ヶ成(猿田彦が鏡を使って連絡をした場所)を通ってすぐ下の関金に降りてきた。幼少期のニニギの命は関金(三ヶ所の神社に祭られている、神田神社 関金町泰久寺632番 日子番能瓊々杵命、

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松尾神社矢送神社 旧矢送村 関金町山口447番、

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日吉神社 関金町関金宿325番)

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で成長し上福田(楯縫神社)に移り、その後上種(大宮神社)に御所を築いた。関金からほぼ真北に移動している。大宮(上種)以前(関金、上福田)は山影の場所ばかりで大宮(上種)を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。 もと出雲国であり天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国である。ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。天太玉命は方見神社(琴浦町上伊勢100番地)

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に石凝姥命は倉坂神社(琴浦町倉坂1229番)に

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天手力雄命は神郷神社(琴浦町大杉887番)に、
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天鈿女命は上里神社にまつられている。
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コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵の少し下ったところにある亀谷神社
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祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる高江神社が隣の丘にあります(コノハナサクヤヒメを祭る子安神社)。

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 天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、玉依姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。

 

  やすみししわご大君の食国(おすくに)は倭(伯耆国を含む出雲)も此処(九州)も同じとぞ思ふ -大伴 旅人父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)を 脱き棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)きて 行(ゆ)くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝(な)がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲(あまくも)の 向伏(むかぶ)す極(きは)み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極(きは)み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに しかにはあらじか 山上 憶良父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、黐(モチ)にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前(大伴旅人)をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。

出典

高天原=蒜山、天孫降臨地=伯耆国説  
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201507060001/

佐竹淳如氏、田村誠一氏、vetty氏の高天原=蒜山説
古事記・日本書紀の高天原は岡山県真庭市の蒜山である、とする。
田村誠一氏、vetty氏の天孫降臨地=伯耆国説
http://ysaino11.blog.fc2.com/blog-entry-129.html

 

次週に続きます


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