これを含め、8~10世紀にかけて6つの正史が作られました。本のタイトルと、それぞれの本にまとめられた歴史の範囲は以下の通りです。


①『日本書紀(にほんしょき)』:神代(じんだい・かみよ)~持統天皇


②『続日本紀(ぞくにほんき、読み方注意!)』:文武天皇~桓武天皇


③『日本後紀(にほんこうき)』:桓武天皇~淳和(じゅんな)天皇


④『続日本後紀(ぞくにほんこうき)』:仁明(にんみょう)天皇一代


⑤『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』:文徳天皇一代


⑥『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』:清和(せいわ)・陽成(ようぜい)・光孝(こうこう)天皇の三代


①~⑥は、まとめて「六国史」(りっこくし)と呼ばれます。


すべて漢文で、かつ年代を追って出来事を記述する編年体(へんねんたい)で記されています。


編纂事業の中心的役割をになったのは、

天武天皇の息子である舎人親王
(とねりしんのう)

紀清人(きのきよひと)らとともに完成させた

ようですがこれは表向きの話です。



『古事記』『日本書紀』が記紀(きき)」です

『日本書紀』が渡来人の指示により改ざんされた。

渡来人 : 藤原氏は日本における貴種名族の

「源平藤橘」のひとつの一族で渡来した朝鮮人です。

藤原不比等は初代の藤原鎌足の息子です。
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印刷技術がない当時は写本が基本ですから改ざんは、いとも簡単にできます。


藤原不比等による改竄の一例


朝鮮人:藤原不比等日本征服の記念誌たる日本書紀を作るにあたって


伯耆国(ほうきのくに)に天皇がいたことをことごとく消し去る作業をしている。


それは蘇我氏や天武天皇の出自を消すためである。


百済の王族の正当性を作り上げる為に伯耆国の地名や神社や伝承を九州や大和等に移した。

◎ 鳥取県北栄町にあった葦原中津国を宮崎県に改竄した。


◎ 神武天皇の兄弟四人がおられた四王寺山を宮崎県高千穂町の四王子峰に改竄した。


◎ 大物主も伊須気余理比売も溝咋姫も奈良と茨木市に移して伯耆国にいたことを解からないようにした。


◎ 宗像三女も米子の宗像にいのを北九州書き換えた。

◎ 孝霊天皇がおられたこともすべて消し去り日本書紀には記載しなかった。


2代から9代までの天皇のことも書かなかった※第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇までの「欠史八代」については、物部系海人族による政権が続いており、後に主流を占める秦氏系北朝皇統からは"都合が悪い"として詳細を封印された。
天孫降臨で、葦原中ツ国を明け渡した大国主命が出雲に行ったことは書いてあるが事代主命・建御名方命のことも書いてない。不比等は、神社の祭神を書き換えたり、潰したり、神主を変えたり、新しい神社を作ったり新たに伝承を植え付けたり、新たな地名を創設し次々と日本の乗っ取りに奔走した。
平成の大合併を見れば分かるが新しく地名を付けることは簡単なことで役所が決めて宣言すればよいだけである

 

藤原氏は「嘘も百回言えば本当になる」という信念を持っている。

また、伯耆国の伝承もきれいに消した。伯耆国だけでなく、蒜山、美作国の伝承もである。



藤原氏によって改竄された日本書紀

本稿では、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱という古代日本の重大事件を、各豪族の背景関係を中心に描き、国史「日本書紀」の信憑性に疑問を投げかけます。

 

1 秦氏とは

① 古代ユダヤ十支族の秦氏は、秦朝滅亡後、中央アジアに「弓月」という国を作っていましたが、漢による万里の長城造営などの苦役を受け、これを逃れるために朝鮮半島に移住「秦韓」を作りますが半島でも圧迫を受けたため応神天皇の招聘で渡来します。
         
② 最初の居住地である九州の豊国秦氏(本宗家)は、人材を確保するため日本に高句麗人・新羅人百済人を招聘しました。その結果、秦氏は国家財政を掌握、養蚕・製糸・紡績の技術を持ち込み産業振興に注力します。


③ 秦氏の一部は山城国(京都)へ移住し、丹波は養蚕や服飾の中心地となりました。6世紀の秦河勝は聖徳太子や蘇我氏と密接になり仏教振興を図り更に山城国に平安京を誘致し先住の賀茂氏や山城紀氏などと提携・婚姻し上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建てます。


④ 秦氏の中央での政治的影響力は、第24代武烈天皇の代に大きく後退、その後は、地方豪族として産業振興に専念します。というのは、海人族・橘氏に支援され、越前(福井)を統治していた彦太尊(ひこふとのみこと)が第25代「継体天皇」となったためでした。


⑤日本史上最初の皇位継承問題として誤解が多いのが「継体天皇」です。


継体天皇(彦太尊)と百済の「武寧王」は同一人物です。
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応神天皇の五世孫だった彦太尊は、かつて海を渡って百済王となり、その後日本の天皇を兼任したのが真相です(「三国史紀」)。◎ 武寧王(462年 - 521年) 百済の第25代の王 ◎ 継体天皇(450年? -531年3月10日) 日本の第26代天皇 (提供:ウィキペディア)


⑥ 継体崩御から4代後の欽明の即位に至るまで、朝鮮半島情勢に起因する全国的な内乱が続きます。
その最大のものが645年の「大化の改新」ですが、その後、これを契機に百済色が大和朝廷に浸透し天智天皇まで続きます。


2 聖徳太子の実像と蘇我氏の謎


⑦ ここでは、大化の改新への伏線となる「聖徳太子」と「蘇我氏」の実像に迫ります。


⑧ 日本書記の論理では、"聖者"聖徳太子が進めようとした律令制等の諸改革に抵抗し山背大兄王ら一族を殺害した蘇我一族を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足は古代日本の英雄である」というものです。



⑨ そこで、聖徳太子の実像についてはその実在性を含め「厩戸(うまやどの)皇子」=「蘇我馬子」=「キリスト(我、馬小屋で蘇る)」等の奇説もありますが、用明天皇と穴穂部間人皇女(蘇我稲目の孫)との間の子でであることは日本書記にも書かれています。



⑩ また、蘇我馬子が建てた元興寺(飛鳥寺)の「元興寺縁起」にも、「推古天皇は池辺天皇の子・等与刀弥弥大王(聖徳太子)、および蘇我馬子に仏法の興盛を促し…、元興を建てさせた」ともあることから実在したことは確かです。



⑪ ところで、聖徳太子が"聖者"とされた理由は、「律令制」「冠位十二階制」「十七条憲法」「仏教の国教化」「随との国交樹立」等が偉業とされるためです。「律令制」は、各豪族から領地を取り上げ一旦朝廷のものとし、その見返りに「冠位十二階」を授け十七条憲法」で天皇を最高の地位に位置づけました。



⑫ アジア情勢の不安定化に対応できる強固な國體を作る。一方で、国際教養としての「仏教」の普及を図りながら、当時、最大の脅威であった「随との国交」を平和裏に樹立することでした。



⑬ これらの偉業は聖徳太子自身によって成し遂げられたものではなく、外交は小野妹子、内政は秦河勝、そして推進力になった蘇我馬子らによるものです。ただし、明治維新の際の「廃藩置県」に匹敵し、有力豪族の抵抗が強かった「律令制」については未完成のままでした。



⑭ にもかかわらず、日本書紀で聖徳太子の存在が過剰なまでに"カリスマ化"されているのは太子の一族を滅ぼした蘇我入鹿は悪人でそれを討った中大兄皇子と中臣鎌足は英雄だと誘導したい思惑が透けて見えてきます。


⑮ 聖徳太子に関して語るとき、太子の建てた法隆寺の「再建・非再建論争」が有名です。
非再建説は法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っているという主張。

⑯ これに対し再建説は、「日本書紀・天智9年(670年)4月30日条」にある「夜半之後、法隆寺に災けり、一屋も余ること無し」との記述等を根拠にし、さらに哲学者の梅原猛は「聖徳太子一族を滅ぼした藤原氏が、その怨念を恐れて供養のために再建した鎮魂の寺」とも述べています。



⑰ が、平成16年に国立奈良文化財研究所は、金堂の屋根裏に使われている木材をデジタルカメラで撮影し、そこから建立年輪年代を測定。それによると、部材が650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀がいう炎上の670年よりも前の伐採だと発表。ここでも日本書紀の矛盾が指摘されました。

⑱ 一方、聖徳太子の子であることが"常識"とされている悲劇の"聖者"山背大兄王ですが、実は日本書紀を含め太子の子だったという記録はなく、まためぼしい業績も残っておらず、さらに聖徳太子が作った法隆寺にも祀った形跡がなく果たして日本書紀が持ち上げる程の"聖者”だったのか疑問です。



⑲ それどころか、「上宮記」「法王帝説」によると、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女とあります。



⑳ 蘇我馬子は物部守屋を討ち物部宗家を滅ぼしました。が、日本書紀では、蘇我入鹿を"物部大臣"と言ったり、入鹿の祖母は物部守屋の妹とあり、物部氏の伝承を記した「先代旧事本紀」によると蘇我氏の母系は物部氏であり"海人族"孝元天皇の血を継いでいるとあり矛盾しています。



㉑ むしろ、蘇我氏は、物部氏と同じ古代ユダヤ十支族である"海人族(出雲族=カラ族)"で日本書紀の編纂者である藤原一族からは疎ましい一族だったと考えられるのです。ちなみに、「蘇我」は「宗我」ともいわれ、物部一族の「長宗我部」氏との関係も伺われます。 



3 乙巳の変・大化の改新から白村江の戦い・壬申の乱へ


㉒ ここで、一連の流れを整理します。「大化の改新」については、日本書紀によると「蘇我入鹿が律令制度導入に抵抗する等、専横を極めたため暗殺された」とされていますが、これは後に日本書紀の編纂を行なった藤原不比等による捏造の可能性があります。


㉓ 真実は、混乱が続く国内をまとめ大和朝廷の強化を図るために、聖徳太子と蘇我馬子、秦河勝らが
進めようとしてた改革に抵抗したのは中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の方でした。



㉔ というのは、蘇我入鹿は「律令制」「冠位十二階」「十七条憲法」の整備による国内体制の強化を優先すべきと唱えたのに対し、中大兄皇子と中臣鎌足は、唐により圧迫されていた「百済救済」を最優先すべきと考えたからです。



㉕ そして、「大化の改新」により政敵を倒した天智天皇は「白村江」へ派兵。が、大敗北。この事態を憂慮した尾張氏、県犬養氏、安曇氏ら"縄文族"は、「大海人皇子(天武天皇)」を奉じて「壬申の乱」を起こします。



㉖ その結果、百済色の強い天智天皇派を一掃
東アジア情勢の不安定化に対応できる挙国一致の"海人族中心"の天武政権を樹立しました。




㉗ 天武天皇は、「古事記」を編纂させて国家神道を立てますが、教義の根本を"天孫史観(騎馬民族歴史観)"に置いたのは、身内同様の海部(あまべ)氏の海部神道とニギハヤヒの物部神道を根底に敷きながら、天智系天孫族との大連立を図ったからです。



㉘ 海人政権が復活した天武天皇以後、称徳天皇までが海人系の時代でしたが、天智の孫の白壁王が皇位を継ぎ、その後、文武、聖武王朝などで百済色が復活して海人勢力の後退が明らかになります。この間、かつて朝廷に影響力を持った秦氏に代わって藤原氏が、本格的に暗躍し始めます(提供:誰も語れなかった驚愕の日本史)



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