高天原・天孫降臨ー4 大和葛城説ー5 神武天皇社
2月4日の誕生花 ツバキ (椿)
花言葉: 誇り、完璧な魅力
高天原・天孫降臨ー4 大和葛城説-5
神武天皇社 御所市柏原246
古事記には天照大御神は、日本の国土を生んだ男性神「伊邪那岐(いざなぎ)」から産まれました。一般的に「太陽の女神」と言われ、稲を作りその収穫を祝う祭祀を行う役割を持ちます。
天照大御神は「天津神(あまつかみ)」と呼ばれ、「高天原(たかまがはら)」という天上の世界に住んでいました。一方で、天照の父「伊邪那岐」が「伊邪那美」と共に生んだ地上の国。これは「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(日本列島 現在の中国地方 蒜山を中心とした地域)と呼ばれ、そこは国津神(くにつかみ)と呼ばれ「大国主」が治めていました。天照は、もともとは両親が生んだ葦原中国を、自分たち天津神が治めるべきだと思うようになります。そこで、高天原の神々を葦原中っ国「出雲」に派遣して、国津神の「大国主」から「国を譲ってもらおう」と考えました。
国津神「大国主(おおくにぬし)」から天照大御神への国譲り
当時、葦原中国を治めていたのは大国主(おおくにぬし)と呼ばれる神でした。政治の中心地は出雲です。
天照は何度も神々を使者に出しますが、大国主は会おうとはしません。天照から使いに出された天照の息子・アメノホヒも、大国主を説得できず逆に出雲に引き入れられてしまいます。しかし天照が建御雷神(たけみかづち)という雷神を派遣すると、ようやく大国主も受け入れ、国譲りを決意しました。
大国主はその時、出雲に神殿を創ることを約束させ、これが今でも残る「出雲大社」の原型になっています。(また天照の息子アメノホヒの子は、出雲大社を守る出雲国造となり、現在の出雲宮司の家系につながっています・・高円宮典子さまが皇室から出雲宮司の千家国麿さんへ嫁がれましたが、遠い遠い天照の子孫が現代で結ばれた!ということです。)
こうして葦原中国を大国主から譲り受けた天照は、自分の孫「邇邇芸命(ににぎのみこと)」を地上に派遣します。この出来事が「天孫降臨(てんそんこうりん)」と呼ばれます。ニニギノミコトが降り立ったのは、出雲・因幡 伯耆・美作の国(今の島根県・鳥取県・岡山県)に跨る蒜山高原です。またこの時に天照から渡された八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草那芸之大刀(くさなぎのたち)を三種の神器と言います。
ニニギノミコトはこの地で木花之開耶(このはなのさくや)姫と結婚します。この時、姉イワナガヒメを一緒に娶るように頼まれましたが、ニニギはそれを断ったので、ニニギノミコトの子孫は「必ず花のように散る=人間のように寿命が限られる」ようになったといいます。ニニギノミコトの子孫はしばらくこの地を治めたのち、本州を平定しに向かいます。
神武天皇を大和の国に導いたのが、高天原から派遣されたヤタガラス。綏靖天皇を基点に母方の皇祖神である。神武とはこの大和葛城のカモ王朝に婿入りした人物である。おそらく神武天皇の祖先がニニギまでしか遡れなかったのだろう。神武天皇が宮を構えたのは橿原神宮などではなく、この御所市柏原の神武天皇社です。
天皇に姓があった
神武 神日本磐余彦天皇(カム やまといわれひこのすめらみこと)
長男 神八井耳命(カム やいみみのみこと)
次男 綏靖「神渟名川耳天皇(カム ぬなかわみみのすめらみこと)」
つまりカム=カモ王朝。
これは神武が征服者ではなく、カモ・カム王朝に婿入りした男だったという証拠。しかも神という字を当てはめられている。カモとは神であった。6代孝安までは鴨王朝であろう。 日本書紀は、3代安寧天皇の皇后である渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)の父親が、 「鴨王」であると思わず書いてしまっている。
事代主の子、鴨王だ。 普通、一豪族に「王」などとは書かない。 先代旧事本紀と照らし合わせると、この鴨王は天日方奇日方命の事だろう。 ヒメタタライスズのお兄さんだ。 この人物の事を、思わず王と書いてしまったのは、 日本書紀編纂者が、この時代が鴨王朝であり、 ヒメタタラが女王とされ、神武は入り婿である事を知ってたからなのだ。
大和の平定と初代天皇の即位
ニニギノミコトから三代ののち。(たったの三代ですが、179万2477年の後だと言われています)
ニニギの子孫の「神日本磐余彦尊(カム やまといわれひこのみこと)」は、兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)と共に大和地方を平定に向かいます。
途中、兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は紀伊の国(和歌山)の戦いで命を落としますが、神日本磐余彦尊(カム やまといわれひこのみこと)は高天原の神々の助けを受けて大和の平定に成功します。
そして紀元前660年2月11日、都とした柏原宮(奈良県御所市)で名前を始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)に変えて初代天皇に即位しました。亡くなってからは元号で「神武天皇」と呼ばれます。(「神武」や「明治」「昭和」のような元号をつけて呼ぶ呼び方は、天皇が退位してからになります)神武天皇はニニギノミコトのひ孫。天照は神武天皇にとって、ひいひいひいおばあさんになります。大国主から国譲りを受けて長い年月ののち、ようやく現在の日本まで続く王朝が誕生しました。
享保21年(1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。一説にはこの神社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼いてしまったと言われています。
御所市観光ガイドより
日本書紀によると、大和を平定した神武天皇は掖上の「ホホ間の丘」に登って国見をされ「妍哉、国を獲つること(なんと素晴らしい国を得たことか)。内木綿の真乍き国といえども(狭い国ではあるが)、なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな(トンボが交尾して連なっているように山々に囲まれたところだ)」と宣い、これによって日本の国号「秋津洲」の名が誕生したとされていて、国見山はこの丘の実在の地と言われています。
ホホ間の丘と言われる山はもう一つ「本馬山」があり、ホホ間と本馬が似ていることから有力な候補地ですが、残念ながら本馬山は現在登ることができません。
この二つの山はいずれも「掖上」という地域にあり、山から見下ろせる地域は「秋津」と言います。国見山頂(229メートル)には「ホホ間の丘」の石碑が建っています。山頂に立つ石碑には「嗛間丘(ほほま丘)」「神武天皇聖蹟傳説地」と刻まれています。
国見神社から標高229.38mの頂上まで距離500m程で、高低差100mの登山道となっています
国見神社拝殿
神武天皇の曽祖父ニニギノミコトを主祭神とする神社
神武天皇社拝殿。
拝殿前にはたくさんの石燈籠が並んでいます。
境内に祀られる地蔵尊。
古代地名として伝わる掖上(わきがみ)ですが、この掖上にも深い意味が込められているようです。
掖上の「上」は「神」のことであり、”大神神社の脇” ではないかとする説です。この地には鴨都波神社が鎮座していますが、古くは「鴨都味波神社」だったとされます。つまり、味波は神であり三輪だというのです。
地蔵尊の横に建つ王城院。
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